田村育子は、野口みずきが影響を受け嫉妬した、消えた天才ランナー!その理由や陸上成績・経歴、感動秘話とは?
目次
田村育子は野口みずきが嫉妬した消えた天才ランナー!
2019年7月28日(日)18時30分~20時54分の「消えた天才」(TBS系列)で「野口みずき&古田敦也&上村愛子が衝撃を受けた天才SP」と題した番組が放送されます。
この番組の中で紹介されるのが、アテネ五輪女子マラソンの金メダリスト、野口みずき選手が実業団時代に最も衝撃と影響を受けて嫉妬したという「消えた天才ランナー」です。
この「消えた天才」の女性ランナーとは誰なのか?
その答えは、ワコール所属時代の同期(その後、共にグローバリーに移籍)田村育子さんです。
実は、田村育子さんは、野口みずき選手が主戦場にしていた長距離ではなく、中距離専門の選手で、陸上1500mの元日本記録保持者でもあり、1マイル走(約1609m走)の現日本記録保持者です。
同じ陸上選手とはいえ、長距離と中距離という異なった種目を主戦にしていたのに、野口みずき選手は、なぜ田村育子さんに最も影響を受け嫉妬したのでしょうか?
その理由や田村育子さんの経歴・実績などについて調べてまとめました。。
田村育子に、野口みずきが衝撃と影響を受け嫉妬した理由とは
アテネオリンピック女子マラソンの金メダリスト、野口みずき選手が、ワコール・グローバリー時代の同期、田村育子さんに最も影響を受け嫉妬した理由とは、一体、何なのでしょうか?
それは、実は、野口みずき選手も、マラソンやハーフマラソンといったロードレースの長距離を主戦場とする前は、トラックの長距離の選手として活躍していました。
三重県立宇治山田商業高校時代は、3000mでインターハイに出場したり、駅伝の全国大会に出るなどし、実業団のワコールに入社してからも、3000m・5000m・10000mといったトラックの長距離選手として活躍していました。
しかし、実業団所属時代当初、野口選手の走り方が、前から見ると足の裏が見える程、かかとから地面に着き、腰が落ちてしまったスピードに乗りきれない走り方をしていたため、ついたあだ名が「ミッキーマウス」でした。
当時、野口選手がちょっと太っていたこともあってか、当時の藤田信之監督も「ミッキーマウスかいな」と思っていたそうです。
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そんな最中、その藤田監督が会社(ワコール)側との方針の違いから解任されてしまい、入社2年目で特に大きな実績が無かった同期2人は、その後を追うことを選びました。
会社の寮を退去せざるを得なくなった野口みずき選手と田村育子さんの2人は、京都市内のアパート(家賃7万円・3DK)に移って共同生活を始め、失業保険をもらいながらも、職業安定所に通う日々が続きます。
2人は、その時の所属先を「チーム・ハローワーク」と呼んでいたそうです。
その後、無事に、藤田監督と共に、3人は、当時、陸上の実業団に力を入れ始めていたグローバリーに入社します。
そこで中距離ランナーとしてメキメキ力をつけ、実績も出し始めていたのが田村育子さんで、その腰の高いストライドで走る姿を見た野口選手は「自分と正反対のカッコいい走りをしている」と嫉妬します。
しかし、そこは野口みずきという超一流選手のなせる業なのでしょう、その田村育子さんのカッコいい走りを後ろで追っているうちに真似をして走り、何と、自分のもの(走り)としてしまいます。
それが、野口選手が金メダルを獲得したアテネ五輪女子マラソンで見せた、スパートした時には飛び跳ねているようにも見える、あの腰の高いストライド走法をつくり上げたというわけです。
ですので、野口みずき選手は、田村育子さんの走りに衝撃と影響を受け嫉妬までしましたが、その結果、オリンピック金メダルという偉業を達成するまでに至ったわけですね。
田村育子が野口みずき選手のアテネ五輪金メダルを後押しした感動秘話とは
ちなみに、田村育子さんは、アテネオリンピック女子マラソン当日も野口選手の応援に駆け付けていました。
マラソンの後半、ゴールまで残り2キロの時点で、野口選手は独走していましたが、元世界記録保持者キャサリン・ヌデレバに猛追され、その差を一気に縮められていました。
そんな苦しい状況を救ったのも、実は田村育子さんでした。
野口選手の腕の振りが鈍った、その時、沿道の人波の中から「みずき!」と呼ぶ叫び声が聞こえてきました。
それが田村育子さんで、練習中に痛めた左足を引きずりながらも、沿道を並走してくれて、金メダルを獲得した野口選手も、後のインタビューで「イクの声が背中を押してくれました」と語っています。
本当にジーンとくるような話ですが、その掛け声が無ければ、あのヌデレバに抜かされていたかもしれないと思うと、何とも言えない、真の友情を感じさせる感動秘話ですね。
いずれにしても、そのストライド走法という走り方を真似ただけでなく、田村育子さんという、天才的な陸上選手でもあり親友でもある人物、その存在自体が、野口みずき選手に多大な影響をもたらし、その活躍までをも後押ししていたのは間違いないですよね!
田村育子(陸上選手)経歴・成績|野口みずきが認めた天才ランナー!
それでは、今回の野口みずき選手が認めた「消えた天才ランナー」として出演する田村育子さんの経歴や成績などの実績について見てみましょう。
【氏名】田村育子(たむら いくこ)
【年齢】40歳
【生年月日】1978年9月24日
【出身地】香川県
【出身校】香川県立高松商業高校
【実業団】ワコール(1997年~1998年)→グローバリー(1999年~2005年)
【ベストタイム】
1500m 4分10秒39(当時の日本新記録)
1マイル走 4分34秒81(現日本最高記録)
【成績・実績】
2000年 日本選手権陸上1500m優勝
2001年 日本選手権陸上1500m優勝(2連覇)
2002年 日本選手権陸上1500m優勝(3連覇)
2002年 釜山アジア競技大会代表選手に選出(故障のため出場辞退)
田村育子さんは、現役時代、陸上女子の日本選手権1500mで3年連続優勝(2000年~2002年に3連覇)という素晴らしい成績を残しています。
ベストタイムも1500mで4分10秒39ということで、当時の日本記録を樹立するなど、陸上トラック中距離界の第1人者として活躍していました。
1マイル走のベストタイム、4分34秒81という記録に至っては、17年近く経過した今でも現日本最高記録として残っていますので、当時の強さが分かります。
やはり、あの野口みずき選手が、最も衝撃と影響を受けた選手というだけのことはあって、その実績も凄いですね!
田村育子が悲劇の「消えた天才ランナー」となった理由は
それにしても、野口みずき選手が認めた天才ランナー田村育子さんはなぜ消えてしまったのでしょうか?
その理由は、田村育子さんが陸上の日本選手権1500mで3連覇を果たした絶頂期に、2002年9月から始まる釜山アジア競技大会代表選手に選出されますが、大会を前にして、左脚を故障(疲労骨折)し出場辞退を余儀なくされ、実は、その怪我が完全には回復しなかったため、2005年に所属先のグローバリーを退社し、現役を引退してしまいました。
やはり、トラックの中距離では、日本で敵無し状態だった田村育子さんといえども、怪我には勝てなかったのですね。
それこそ、野口みずき選手も北京オリンピックを前にして出場を辞退するなど、後年は怪我に悩まされていた選手の1人ですが、アスリートにとって怪我というのは、選手生命にかかわる本当に大変なものだと思います。
ちなみに、田村育子さんは引退後、当時、シスメックス監督を務めていた藤田信之氏が主催する「F・R・A 藤田ランニングアカデミー」のアドバイザリースタッフとして働いています。
田村育子の現在は?
なお、野口みずき選手が認めた天才ランナー田村育子さんの現在は、28歳の時にマラソン選手の夫と結婚し、専業主婦として2人の子育てや家事に従事しています。